2024-12-24

「これぞまことの黒田武士」 黒田節/筑前今様の歌詞あれこれ

前回は『【悲報】福岡に黒田節なんてものは存在しない!旧福岡藩士が嫌った黒田節』と題して、実は福岡県民謡『黒田節』は戦前にNHKラジオが捏造したもので、その当時まだ存命だった旧福岡藩士たちは憤慨し『黒田節』を嫌った話しについてご紹介しました。今回は、その『黒田節』の元となった『筑前今様』の歌詞(和歌)について、私が調べて分かった事を纏めてみました。

黒田家家臣の母里太兵衛友信ぼりたへいとものぶは、黒田二十四騎の中でも精鋭と言われる黒田八虎の一人に数えられる勇将です。官位は但馬守。福岡藩の儒学者・貝原益軒が記した『黒田家臣伝』(『益軒全集 巻五』の中「母里太兵衛傳」)の中に太兵衛の生い立ちなどと共に福島正則から槍を呑み取った逸話が記されています。以下はその逸話の引用です。

此鎗は元來秀吉公日本無比の鎗とて秘藏し給ひしを、或時福島左衛門大夫正則勲功の賞に賜ひし鎗なり。これによりて、左衛門太夫甚秘藏せられしが、伏見にて左衛門大夫より、太兵衛を招て酒宴有し時、左衛門大夫大なる鉢を出し、是にて呑べしと强られければ、太兵衛、これは以の外なる大盃にて候、いかにしてか、是にてのみ申べきとて辭しけるに、左衛門大夫、是にて酒をのまば、何にても其方望の物を、引出物にせんと有しかば、太兵衛内々彼大身の鑓を望におもひければ、能折節と思ひ、其座上にかゝりて有けるを見やりて、あの鎗を賜はらば、此鉢にて飮み申さんといふ。左衛門大夫酒にて醉て、彼鎗の秘藏成事を忘れ、しからば此鎗を與ふべし。其鉢にてのみ候へと云れしかば、太兵衛其大盃にて酒を受飮て、彼鎗を取て歸ける。其翌󠄁日左衛門大夫彼鎗を尋ねられしに、家人ども、昨夜母里太兵衛に賜りしよしを申ける。左衛門大夫大に後悔し、其鎗は太閤より賜りし重寶なり。いかでか人に與へんとて、太兵衛に使者を立、其鎗を返すべしと、頻りに伝遣はされけれども、太兵衛終に返さずして、此鎗を常に陣中に持行けり。又大刀成し故、三間柄の中身の鎗を常に持す。朝鮮などにても、此鎗を以て、敵二人も三人もさし貫きけるとぞ。

[引用: 貝原益軒 著『益軒全集 巻五』「母里太兵衛傳」 より]

要約すると、『文禄・慶長の役』の休戦中の文禄五年(1596年)の正月、京都伏見城での年賀の祝宴の場で、母里太兵衛は福島正則から大きなに注いだ酒を飲む様に強要され断ったが、福島正則が「これを飲めば望みの物を褒美として与える」と言うので、太兵衛はそれならばと「あの鎗(日本号)をいただけるのなら」と言い返すと、酔っていた福島正則が了承したので、太兵衛は大鉢の酒を飲み、飲み干した約束として名槍「日本号」を得て持ち帰った。福島正則は翌朝酔いが冷めると大切な槍が無くなっている事に気付き慌てて太兵衛に返還を求めたが戻らなかった。太兵衛は戦でこの槍で手柄を立てたという逸話です。

(後に、仲違いをした黒田長政と福島正則は互いの兜を交換<長政→正則:水牛の兜、正則→長政:一之谷形兜>して和解している。【参考:黒漆塗桃形大水牛脇立兜@光雲神社 | 福岡市】)

福島正則が太閤秀吉から賜り、母里太兵衛が福島正則から呑み取ったこの鎗は「日本号」という名で呼ばれていますが、この呼び名は後世付けられた名なので歴史資料にはその様な名は登場しません。また、この逸話は後世の伝記物の類の創作により太兵衛は禁酒をしていたとされたり、酒が注がれた鉢が大盃で描かれる等の脚色が加えられています。

現代でも酒の席で「のめのめ」と人に無理強いする人がいますが、”アルハラ”が認知された昨今でもまだいるでしょうね。酒癖の悪い人も昔からいます。福島正則の様に、酔って気分が良くなると大盤振る舞いするが、翌日には忘れて失敗に気付く人もいる事でしょうね。

二川相近の門下で剣道の名手で知られた高井知定(多門)は、「酒に飲まれて乱暴狼藉をはたらくような人間は黒田の侍ではない。同じ飲むなら母里太兵衛の様な酒呑みになれ。」と、黒田家中の不心得者を戒める意味で、母里太兵衛のこの”呑み取り槍”の逸話を元に天保五年(1834年)頃にこの今様(※1)を作ったと伝えられています。

※1:「〽のめ〳〵酒を のみこみて 我が日の本の その鎗を 取りこしほどに のむならば これぞまことの 黒田武士」

先の大戦の「福岡大空襲」により福岡市中心部一帯は焼失し、歴史的な資料等の多くが焼失、高井知定作とされるこの”呑み取り槍”の今様(※1)も口伝により現在伝えられているもので原文ままなのかまでは不明です。黒田如水と長政の親子を祀る光雲神社の境内にある母里太兵衛像の台座に高井知定作の筑前今様(※2)が刻まれていますが、歌詞に異同がある事から変化して伝えられている可能性も考えられます。

※2:「〽のめ〳〵酒を のみとりて 我が日の本の この鎗を 取り越すほどに のむならば これぞ眞の 黒田武士」

母里太兵衛友信像@西公園・光雲神社(2013)[写真提供:福岡市]

(※光雲神社の母里太兵衛像は、題字は黒田家第14代目当主に当たる従三位勲三等黒田長禮(長礼)、歌字は同夫人茂子による書で、博多人形師の中ノ子なかのこタミさんと富基子ふきこさんにより制作され、昭和51年10月に有志等により奉納された。富基子さんの母方は母里家の血を引くという。ちなみに「光雲神社」の社名の”光雲”は、官兵衛の法名である龍光院殿と長政の法名である興雲院殿から一字ずつ取ったもの。)

余談ですが、「母里家二十四代目母里市兵衛忠一氏による話しを記したブログ記事」を見つけたので、リンクを貼っておきます。母里家に伝わる呑み取り槍の逸話や今様などについて語られています。

さて、話を戻します。旧福岡藩士たちによって結成された玄洋社の社史(大正6年出版)の冒頭には「加藤徳成作筑前今様」(加藤司書作の皇御国の今様)と「黒田藩武士歌今様」(高井知定作の呑み取り槍の今様)が掲載されています。

すめらみ國の武士は いかなる事をか勉む可き 唯身に持てる眞心を 君と親とに盡すまで (加藤徳也作筑前今様)

酒は呑め呑め呑むならば 日の本一の此の槍を 呑み取る程に呑むならば これぞ誠の黒田武士 (黑田藩武士歌今様)

[引用: 玄洋社社史 より]

(※加藤徳成とは、幕末福岡藩で藩命により勤皇派を壊滅に追い込んだ「乙丑の獄」で散った勤皇派の中心人物の家老・加藤司書のこと。)

高井知定作の"呑み取り槍"の今様(※1)は、福岡藩士たちによって様々な機会に歌われていく中で歌詞が変化したのだと思われ、概ね大正期には今と同じ「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)が主流となっていく。(※「飲め」は「呑め」の漢字で書かれる事もあるが意味に違いは無い。)

※3:「〽酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を 飲みとるほどに 飲むならば これぞまことの 黒田武士」

JR博多駅博多口にある母里太兵衛像の台座に刻まれた歌詞はこれ(※3)と同じだが、”忌まわしき”「黒田節」の題名も刻まれている。

母里太兵衛友信像@博多駅・黒田節像(2013)[写真提供:福岡市]

(※博多駅前の母里太兵衛像は、彫刻家・米治一による制作で博多ライオンズクラブから福岡市へ昭和45年5月に寄贈された。)

尚、筑前今様を愛好した旧福岡藩士たちが「黒田節」という呼び名を特に嫌った話しについては、前回の記事でご紹介した通りである。流石のライオンズクラブの面々も旧福岡藩士たちが「黒田節」を嫌った事実など忘れていたか知らなかったのであろう。大変嘆かわしい限りである。きっと旧福岡藩士たちも夜空の向うで嘆いているに違いない。

※博多駅前の母里太兵衛像や一般的な「黒田節」の博多人形では、日本号の鎗と朱塗りの大盃を手にしていますが、光雲神社の銅像は大盃ではなく逸話通りの大鉢を手にしているところにも注目してみて下さい。

高井知定作の"呑み取り槍"の今様(※1)は、世間に広く知られている”福岡県民謡黒田節”の「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)とは少し異なります。ちょうど福岡藩士の間で今様が流行していたその頃、福岡藩剣術師範だった吉留杏村よしとめぎょうそんが宇美八幡宮へ参詣の途次に必ず立ち寄った蔵元の小林家(現・小林酒造本店)にて今様を作り、その今様(※4)が大いに流行ったそうで口伝で今に伝わっています。

※4:「〽宇美の酒屋に立よりて、早見川ちふ甘酒を、桝の角よりかたむけて、三里を近しとかへりけり。」

(※早見川とは現在の宇美川の呼び名。また、早見川と名づけられていた小林家の酒銘。)

そして、その歌詞(※4)の文句が変化したもの(※5)が併行して伝えられている。

※5:「〽酒は飲め〳〵飲むならば、宇美の栄屋に立ち寄りて、早見川といふ酒を、桝のすみから二合半。」

高井知定が詠んだ”呑み取り槍”の今様(※1)と、吉留杏村が詠んだ”清酒早見川”の今様(※5)、この二つを一つにフュージョン(融合)して現在よく知られている「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)になったと言うがある。然しながら、この「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)には、調べてみると更に古くは別のバリエーション(異同)の文句(※6)がある事が分かった。

※6:「〽酒は飮むべし 飮むなれば 日の本一の 此槍を のみとる程に のむなれば 是ぞ誠の 黑田武士」

古い資料を調べたところ、概ね明治から大正期にかけては「〽酒は飮むべし」で始まる歌詞(※6)が、大正から昭和期にかけては「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)の割合が多い事から、その当時の歌詞の変遷が推測できる。どうやら「酒は飲むべし」が「酒は飲め飲め」と変化し、更に「なれば」が「ならば」意味が異なる文句に変化し、今ある「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)になった様である。同じ様に、高井知定作の"呑み取り槍"の今様(※1)の歌詞も「なれば」が「ならば」と文句が変わっている可能性も考えられる。

さて、そうなると、高井知定と吉留杏村の今様(※1と※5)が一緒になって今の「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)になったと言う説には矛盾が生じる。吉留杏村が詠んだと伝わる二つの”清酒早見川”の今様(※4と※5)には、「酒は飲むべし」や「なれば」といった文句のバリエーション(異同)が見当たらないからだ。つまり、「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)は”清酒早見川”の今様(※4と※5)が作られる以前に存在していたと考えられる。吉留杏村作と伝わる二つ目の「酒は飲め飲め」で始まる”清酒早見川”の今様(※5)は、”呑み取り槍”の今様(※1)の歌詞が「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)に変化したものが広まった大正期以降に影響を受けた結果出来上がったもので、二通りの歌詞(※4と※5)が今に伝えられていると考えた方が自然である。

何れにせよ、世間に広く知られている”福岡県民謡黒田節”の「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)はこの様に歌い継がれていく中で変化して誕生した訳だが、旧福岡藩士の間で謡われた今様では高井知定作の"呑み取り槍"の今様(※1と※2)と「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)の両方が併行して伝えられている。

この他に、新潟県糸魚川市辺りでは、高井知定作の"呑み取り槍"の今様(※1)に非常によく似た今様が婚礼や法事などの宴会で歌われていたと伝えられている(参照:『相馬御風随筆全集 第八巻』)。

「〽飲め〳〵酒を 飲むならば 日の本一の この鎗を のみとるほどに 飲むならば これぞまことの 大和武士」

前回の記事でご紹介した『黒田節』名付け親の井上精三は、自身の著書(『にわか今昔談義』及び『博多風俗・芸能編』)の中で、当時の糸魚川市市長から「黒田節」により自分たちが子供の頃から歌っていた今様がいつの間にか「黒田節」と名を変えて福岡の民謡になってしまったと直接苦情を受けた事を明かし、全国に広がってしまえば、誰が文句を言ってもはじまらないと傲慢な言い訳をしている。

糸魚川のこの今様は、最後は「大和武士」になっているが、歌い出しは「飲め〳〵酒を」でそれ以降は殆ど今の「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)であり、母里太兵衛の呑み取り槍の逸話を元にした今様である事はほぼ間違いないだろう。福岡で高井知定作の"呑み取り槍"の今様(※1)から今ある「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)へと変化していた頃に北前船により福岡から新潟へ伝えられた可能性がありそうだ。

最後に、前回の記事でご紹介した様に、福岡県民謡『黒田節』はTV放送がまだなかった昭和3年11月にNHKラジオの井上精三(当時20代でNHK福岡放送局の園芸番組係り)が筑前今様に手を加えて創作し、福岡県民謡だとでっち上げたものである事を記した。井上精三は自身の著書『博多風俗・芸能編』(昭和50年出版)の中で、高井知定作の今様の歌詞の「飲み込みて」や「取りこす」等の言葉の不自然さを挙げ、高井知定の作そのもののを存疑とし、筑前今様の歌詞は当初から「黒田節」と同じ歌詞であったなどの主張をしている。然しながら、私が調べ今回記した様に、実際には「〽酒は飲め飲め~」の歌詞も「〽酒を飲むべし~」から変化したものであって、井上精三の主張は自身が”いたらぬ事をした”事への身勝手極まりない苦し紛れな言い訳に過ぎない事が証明される結果となった。

さて、「黒田節」を歌った赤坂小梅だが、「黒田節」のレコードは200万枚(自称ではなく公称とされる数字)の大ヒットを飛ばしたと言われている。その後、赤坂小梅がTVの歌番組に出演した際に即興で作って歌い、後に『祝い唄黒田節』としてNHKで披露されてレコード化もされたその歌詞の1番は「〽酒は飲め飲め~」の歌詞(※3)の『黒田節』で2番は次の様な歌詞(※7)で、当時は結婚式で歌われたそうである。

※7「〽君が晴れ着の みすがたに たわむれ遊ぶ 鶴と亀 今日の佳き日は 君がため 寿 祝うてめでたけれ」

赤坂小梅 祝い唄 黒田節

もしも、「今様」だけではなく「能」も嗜んだ旧福岡藩士たちが生きてこれ(『祝い唄黒田節』)を耳にしていたら、結婚披露宴の定番『高砂』があるのに何事だ!そして『黒田節』でさえ嫌った題名を更に『祝い唄黒田節』として火に水を注ぐ結果になっていたであろう事は容易に推察できる。あな恐ろしや……。

”福岡県民謡黒田節”は創作された歌謡曲で、黒田武士こと福岡藩士たちが愛好した「筑前今様」とは異なります。「黒田節」は本当は「筑前今様」なのだと単純に題名の単語だけを言換えすれば良い訳ではなく、中身そのものが別物なのです。「黒田節」と「筑前今様」の違いを知った上で「黒田節」を楽しむ分には良いかと思いますが、「黒田節」は黒田武士の魂だ!などと勘違いはなさらぬ様にして下さいませ。

今回は以上です。前回も今回も大変長くなりましたが、最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。