2025-05-03

かしわめし弁当の歴史 No.2 ~折尾駅・東筑軒編~

はじめに

今回は、前回の『かしわめし弁当の歴史 No.1 ~鳥栖駅・中央軒編~』に続き、折尾駅で駅弁を販売する東筑軒の歴史について、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないので私が調べて分かったことを記します。

「親子めし」という名のかしわめし弁当

折尾駅で「かしわめし弁当」を販売している東筑軒の公式サイトを確認すると、その会社沿革には次の様に記されています。

大正初期、国鉄の門司運転事務所所長をしていた本庄巌水(いわみ)は、各地を旅した際、駅弁が画一化していることを痛感。郷土色を生かした駅弁づくりのため、大正10年(西暦1921年)に折尾駅(北九州)で「筑紫軒」という弁当屋をはじめる。

福岡では鶏の水炊きが名物になっているように、昔から鶏肉を好んで食べる土地柄。そこで鶏のスープの炊き込みご飯に、鶏肉と卵をあしらった「親子めし」を考案した。

しかし、この「親子めし」というのを声に出してみると「おやころし(親殺し)」に聞こえてしまうため、名前を『かしわめし』に変更。

筑紫軒は、戦時中の1942年(昭和17年)に、国策により折尾の「眞養亭」、「吉田弁当」、直方の「東洋軒」と企業統合。これが現在の『東筑軒』となる。

[引用: 会社概要 | 株式会社東筑軒 より]

さて、東筑軒の歴史は、折尾駅の駅舎改築の五年後の大正10年7月に本庄巌水が創業した「筑紫軒」に始まります。『駅弁マニア』(1969年出版)によると、創業当時立売弁当は、上等と普通の二種のみで、同年秋にサービス向上を求められて”かしわめし弁当”の販売を開始。また、筑紫軒で売り出された”かしわめし弁当”は初め「親子めし」という名で「かしわめし」と名を変えたのは、『福岡駅風土記』(1974年出版)によると親子めしの販売から4年後の事だそうです。

かしわめし弁当の元祖は折尾駅?

鳥栖駅で神武紀之会(こうたけきのえ)が”かしわめし弁当”の販売を始めたのは大正2年頃の事です(詳細は前回記事を参照)。折尾駅の「親子めし」は大正10年秋頃なので、”かしわめし弁当”の発祥地(元祖)は鳥栖駅という事になります。然しながらここで疑問がひとつ。折尾駅がかしわめし弁当の元祖だという話しを昔からよく耳にします。元祖がどちらなのかは時系列で明らかですが、昔から折尾が元祖だと言われているからにはきっと何か理由があるに違いないと思い調べてみると、昭和の時代の駅弁研究家・瓜生忠夫の著書『駅弁マニア』(1969年出版)の中にそのヒントになりそうな記述がありました。

とり弁発祥の地は、九州、鹿児島本線折尾駅であろうか。同駅の「東筑軒」(大正十二年七月創業)は、つぎのように主張している。「創業当時立売弁当は、上等と普通の二種のみであって特殊弁当を販売する駅は殆んど皆無であったので、旅客の間に内容の変わった特殊弁当の販売が強く要望されていた。この秋に当り、折尾駅は鹿児島本線と筑豊本線の交叉点として重要な位置を占めているため、旅客サービス上特に構内営業が必要とされていたので、鉄道の永年勤続者である本庄巌に対し、当時全国を通じ何れの駅においても販売前例のなかった『かしわ飯』の販売を承認されたものである。」(国鉄構内営業中央会編「会員の家業とその沿革」)と。

[引用: 『駅弁マニア』(1969年出版) より]

また、同書の中で鳥栖駅の中央軒のかしわめし弁当についても次の様に書き記されている。

この中央軒の「かしわ飯」について、前掲書「家業とその沿革」のなかに注意をひく記述がある。中央軒というのは鳥栖、久留米、大牟田、日田の四駅の構内営業人が集まって作ったのだが、そのなかの鳥栖駅の駅弁屋さんで、「かしわ飯販売を専業とする江島家」では、「初代、神武(こうたけ)紀之会 かしわ飯の創始者で、大正二年頃の創業であるが、これに関する記録は明らかでない。」といっているのである。もし大正二年に鳥栖駅で売り出していたのであれば、とり弁ではこれがもっとも古いことになる。

[引用: 『駅弁マニア』(1969年出版) より]

瓜生忠夫が著書の中で引用している書籍は、国鉄構内営業中央会が1958(昭和33)年6月6日に発行した『会員の家業とその沿革』(全629p)の事であるが、どうやらこの書籍は同会に加盟する会員(即ち国鉄構内営業業者)向けの非売品のようだ。

瓜生忠夫(1915年5月6日生~1983年2月26日没)なる人物は、昭和の時代の映画評論家でマスコミ研究家らしいのだが、当時は駅弁研究家としても知られていたらしく様々な人物が書き出版した駅弁関連の書籍の中でも瓜生忠夫の著書が度々引用されており、謂わば駅弁研究の大御所が太鼓判を押した定説として折尾駅の駅弁屋がかしわめし弁当の元祖だと広まったのかも知れない。同時に筑紫軒は大正十二年七月創業(※東筑軒の沿革では大正十年七月創業になっている)という記述も瓜生忠夫の著書を引用した書籍により拡散されていることを付け加えておく。

折尾駅が”元祖”の根拠は販売前例のなかった『かしわ飯』の販売を承認されたという部分だと思われるのだが、ここで注意したいのは瓜生忠夫は「親子めし」の話しについては一切触れてはいない。当時全国を通じ何れの駅においても販売前例のなかったのは「親子めし」という名だったからであれば、折尾駅が元祖なのは「親子めし」だから話しの辻褄が合いそうだ。そこで「親子めし」についても詳しく調べてみたところ、明治から大正時代の書物の中に”親子めし”という言葉が出てきた。折尾駅が親子めしを販売する以前から”親子めし”という言葉が世間に存在し、当時の”親子めし”のレシピが書かれた書籍や”親子めし”を看板メニューにした飲食店の存在も複数確認できたが、これらは当時流行った料理で現代でいう親子丼(”おやこどんぶり”略して親子どん)の様な料理であった。一応、明治大正時代に流行ったとみられる「親子めし」のレシピ(駅弁とは別物)をご紹介しておく。

親子めし】 極柔らかなる鶏肉をよく叩き醤油及味醂て程よく加減しざっと煮立てさてたての飯を丼に程よく盛り少し中を生玉子を掻まはして落入れ其まはりに前の肉をならべをなし充分にすべし

[引用: 現代娯楽全集(明治44年出版)/日本家庭百科全書(大正5年出版) より]

おやこ・どんぶり (第四上)名。{…子丼} 鰻ノドンブリノ類。ドンブリノ中ニアタタカイ飯ヲ入レ、玉子ト鳥ノ肉トヲ煮タモノヲ掛ケタモノ。

[引用: 日本大辞書(明治25年出版) より]

話しを戻します。「親子めし」を駅弁に絞り調べてみると、『実業教養備考』(大正14年)の中に東京鉄道局管内で売り出されていたと分かる記述があった。他にも『写真新報 (1月號)』(大正12年)の中で千葉駅の「一旗亭」という店が親子めしの折詰(弁当)を販売していたとみられる記述がある。名古屋では昭和7年に鳥御飯が販売され、当時の呼び名は”親子めし”だったそうだ。「親子めし」という名の駅弁は、東京、千葉、名古屋、それ以外にもあったのかも知れないが、折尾のそれと内容が同一だったのかはさておき「親子めし」という名の駅弁は折尾駅よりも先は確認できなかった。この事から前例がなかったのは「親子めし」という呼び名の弁当(中身はかしわめし)の事ではなかったのか?この駅弁史上前例がなかった「親子めし」は4年後に「かしわめし」へと名を変えた事で元祖「親子めし」の歴史がそのまま”かしわめし”へと置き換わり、折尾駅の”かしわめし弁当”は元祖だという解釈を生んだのではないだろうか?

この他にも瓜生忠夫が寄稿した記事が『ふるさと日本の味 10』(1982年出版)の中に掲載されている。

この「かしわめし」を考案したのは、大正二年(一九一三)ごろの創業で、かしわめし販売を専業とし、いま、鳥栖駅の弁当を一手に扱っている業者らしいが、「かしわめし」を「駅弁」にと思い付いたのは、大正十二年に創業の折尾駅弁当業者であった。したがって、駅弁としての「かしわめし」発祥の地は折尾駅ということになる。

[引用: ふるさと日本の味 10(昭和57年出版) より]

前述した様に、折尾駅が元祖なのは販売前例のなかった『かしわ飯』の販売を承認されたという国鉄のお墨付きを根拠にしている訳だが、瓜生忠夫の著書等では「親子めし」の件については一切触れられてはおらず、中央軒については殆んど全く調査してない様に思える。

私の前回のブログ反応してくださった中央軒さんの話しによれば、中央軒は昭和の頃の大火事で全て燃えたそうで、それ以前の掛け紙や資料などが残って無いそうです。大正二年ごろの創業と曖昧なのもその為だと思われるが、私が調べてみると古い資料を発見する事ができた。『大日本商工録』には、神武紀之会の千鳥屋の創業は大正3年と記されていた。また、これは次回の博多編にて掲載予定なのだが、戦前まで博多駅でかしわめし弁当を専売としていた蓬莱軒の岩倉音熊に関して、岩倉音熊は大正11年当時に鳥栖駅と折尾駅の両駅にあったかしわめしを博多駅でも売り出し名物にしたいと考え博多駅でかしわめしを売り出している(ちなみに、岩倉音熊は鳥栖駅や博多駅の駅長経験者である)。つまり、鳥栖駅の千鳥屋の神武紀之会は「かしわめし」を創業当時から駅弁として売り出していたとみて間違いなさそうだ。

余談ですが、東筑軒のX(旧ツイッター)公式アカウントにて、過去に中央軒さんが元祖です!と呟いています。🍱

追記:私の今回のブログ記事に反応してくださった東筑軒さんの話しによれば、鳥栖の中央軒さんと同じ様に昭和40年の大火事で全て燃えたそうで、それ以前の掛け紙や資料などが残って無いそうです。😨ガーン

戦時統制での統合

『先の大戦』の折には国策による戦時統制によりあらゆる業種で整理・統合がなされ、”鉄道構内立売業者”も管轄毎に統合がなされました。東筑軒の公式サイト会社沿革1942年(昭和17年)5月 門司鉄道局の要請により、既存4業者(筑紫軒、眞養亭、東洋軒、吉田弁当)整理統合し、東筑鉄道構内営業有限会社を設立。折尾、直方に営業所開設とあるので、この4業者についても調べてみました。

先ず、「筑紫軒」は既に判明しており、前記した通り大正10年創業です。代表の本庄洋は大正15年明大法学部卒後、父・巌水が経営する筑紫軒に入り家業を継いでいます(参考:『産経日本紳士年鑑 第9版 下』)。次に折尾駅の筑紫軒を除く3社ですが、「眞養亭」は大正14年創業で昭和6年5月8日(同年5月14日登記)に「合資会社佐竹眞養亭」に改組改称しています(参考:『官報 1931年07月31日』)。代表の佐竹眞雄は元鉄道省門司鉄道管理局書記。「東洋軒」の創業年は確認できませんでしたが、『日本人事録 西日本編4版』(1960年出版)に松木壽一郎について[歴]大正2年10月20日生 昭和七年鞍手中卒 同八年父死亡後家業継承とあり、若干二十歳で家業を継ぎ後に東筑軒の役員を務めた人物です。「吉田弁当」は昭和7年8月創業で代表は吉田不二男です。

余談ですが、『大衆人事録 第23版 西日本篇』(1963年出版)の中で本庄洋の略歴等について大正15年明大法学部卒後折尾駅にて鉄道構内営業かしわ餅販売を開始とあります。と誤植しており、一字違いで全くの別物ですよね。ちなみに福岡では柏の葉の代わりに”がめの葉”を用いた「がめの葉饅頭」が昔から親しまれています。

まとめ

折尾駅で駅弁を販売している「東筑軒」の歴史は、大正10年7月創業の筑紫軒に始まります。かしわめし弁当は創業年の秋からの売り出しで初め”親子めし”、四年後に”かしわめし”と名を変え、当時から折尾の名物です。

戦時中の昭和17年5月には国策による戦時統制で、折尾駅の筑紫軒・眞養亭・吉田弁当と直方駅の東洋軒の二駅五社が統合して「東筑鉄道構内営業有限会社」を設立。昭和30年12月19日に「株式会社東筑軒」と改組改称して現在に至ります。

最後に、本編は『かしわめし弁当の歴史 No.3 ~博多駅・寿軒編~(仮)へと続きます。尚、続きは近日公開予定です。続きも是非ご覧ください。

備考

筑紫軒
本庄 洋
遠賀郡折尾町
汽車辨當かしわ料理
創大正十年
[瑩]六ニ
[所]二九
電一ニ〇
銀一七支店
参考『帝国商工録 昭和8年度版』
眞養亭
眞養亭
佐竹 眞雄
遠賀郡折尾町
汽車辨當調理販賣
創大正十四年
[瑩]◇
[所]十
支配人平井五介
[電]四七
[銀]十七
公職門司管内構内瑩業者同業組合長
参考『帝国商工録 昭和4年版 福岡県』
合資會社 眞養亭
遠賀郡折尾町 折尾駅構内
汽車辨當調製販賣
昭和六年
五萬圓 全額
代表者 佐竹 眞雄
四七
十七 サタケ
参考『帝国商工信用録 昭和11年度版 九州版』
東洋軒
松木壽一郎
参考『日本人事録 西日本編4版』
吉田 不二男
遠賀郡折尾驛
汽車辨當仕出し専門
創昭和七年八月
電五八
取引一般
参考『帝国実業商工信用録 : 分冊 昭和11年版』
東筑鐵道構内瑩業有限會社
昭和17年企業合同に依り設立
参考『大衆人事録 第23版 西日本篇』
福岡県八幡市折尾町大字折尾七ニ〇番地ノ一
取締役社長 佐竹眞雄
参考『官報 1945年08月08日』
㈱東筑軒
(本社)北九州市八幡区折尾町720 ℡八幡(093)69-0524㈹
〔折尾営業所〕所在地同上
〔直方営業所〕福岡県直方氏須崎町3 ℡2-0406
〔八幡出張所〕北九州市八幡駅構内 ℡八幡67-6246
〔黒崎出張所〕北九州市黒崎駅構内 ℡八幡63-4605
〔若松出張所〕北九州市若松駅構内 ℡若松77-3301
(資本金)52万3,500円
(設立)昭和30年12月19日
(事業内容)駅弁当(かしわめし・幕の内・ちらし寿し・バツテラ)仕出し 雑貨の駅構内販売
(沿革)大正10年筑紫軒として発足 昭和17年東筑鉄道構内営業㈲創立 同30年現社設立
(決算期)5月
(配当)80%
(年商内高)2億円内外
(大株主)本庄洋 佐竹晃 松本寿一郎 大石幸勇 加藤進
(取引銀行)福岡=折尾 西日本相互=黒崎
(施設)本社敷地760㎡ 建物750㎡
(従業員)120名
(社長)本庄洋
(専務)大石幸勇(総務部長)
(取締)佐竹晃(折尾営業所長) 松本寿一郎(直方営業所長) 牧村直衛(営業部長)
(監査)加藤進
参考『産経会社年鑑 第8版』
  • 『九州電力10年史』(昭和36年出版/九州電力㈱発行)に”オール電化した駅弁の東筑軒”と厨房様子の白黒写真が掲載されている。