2025-06-09
かしわめし弁当の歴史 No.3 ~博多駅・寿軒編~
はじめに
今回で「かしわめし弁当の歴史」は一応最終回です。前々回(No.1)の『かしわめし弁当の歴史 No.1 ~鳥栖駅・中央軒編~』、前回(No.2)の『かしわめし弁当の歴史 No.2 ~折尾駅・東筑軒編~』に続き、今回は博多駅のかしわめし弁当の歴史について、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないので私が調べて分かったことを纏めて残したいと思います。
福岡士族が生んだ博多名物かしわめし弁当
かつて長年に渡り博多駅で「かしわめし弁当」を販売してきた「博多鉄道構内販売有限会社(寿軒)」は平成22年(2010年)12月に惜しまれつつも暖簾を下ろし廃業しました。寿軒が博多駅でかしわめし弁当の販売を行う以前に博多駅には「かしわめし弁当」を専売としていた「蓬莱軒」という駅弁屋さんが存在しました。
博多駅構内で「かしわめし弁当」を立売した「蓬莱軒」は大正14年創業で、創業者で店主の岩倉音熊は、筑前植木駅、幸袋駅、鳥栖駅、博多駅、長崎駅などの駅長を歴任した元鉄道院参事補の高等官でした。大正4年に鉄道界から退くと、福岡市内で自動車販売及び修繕賃貸を業務とした九州中央自動車株式会社(大正7年設立)で取締役専務を務め、住吉で九州日報の取次店、博多駅の駅弁屋へと転身を繰り返し、周囲に推されて福岡市会議員、博多商工会議所常議員を務めた人物です。調べて分かった範囲では他にも、株式会社福岡青物市場(現・アイランドシティ新青果市場)で取締役、昭和8~9年度には財団法人鶴城高等女学校(後に空襲で全焼し廃校)の理事を務め、筑前参宮鉄道株式会社や博多湾鉄道汽船株式会社の大株主、また玄洋社員でもあった様です。岩倉音熊は、右手で実業界、左手で地方自治界の”二刀流”でした。
この岩倉音熊という人物は、福岡県士族(旧福岡藩士)岩倉仁郎の三男にして明治6年9月出生で昭和19年3月29日没す。享年72歳。死因は分かりませんが、福岡大空襲は昭和20年(1945年)6月19日なので戦死ではなさそうです。音熊の父・仁郎は福岡藩士で厳格だったらしくて、『事業ト人 : 奮闘秘話 1』(福岡時事社出版部/昭和4年出版)には飯屋のおやぢではあるが何處かにキリツとした風が見へる
と岩倉音熊という人物像や博多駅でかしわめし弁当を売り出した経緯(下記)などが書き記されています。
◇實業界に乘出す
太田淸藏氏たちと九州自動車會社を起こして専務となり又九州日報の博多部販賣もやつたが何に感じてかにはかに方向を轉じて飯屋のおやぢとなりすました。それが大正十一年當時は鳥栖と折尾の兩驛に鳥飯があつたが博多にも名物となる鳥飯を賣出したいと決心し現代式の調理室をかまへておいしいかしわ飯を賣出した。
[引用: 事業ト人 : 奮闘秘話 1(福岡時事社出版部/昭和4年出版) より]
前々回(No.1)の『かしわめし弁当の歴史 No.1 ~鳥栖駅・中央軒編~』にて記した様に、日本初のかしわめし弁当が誕生したのは鳥栖駅です。岩倉音熊は鳥栖駅長の経験もありますが、音熊が鳥栖駅長だったのは明治の終り頃なので大正2年頃に鳥栖駅で神武紀之会がかしわめし弁当を売り出すよりも鳥栖駅長だったのは前の事です。音熊は福岡商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)を卒業後直ぐに鉄道界へと身を投じて大正4年に退職するまで鉄道員一筋でした。代々福岡の家に生まれ育ち第14代博多駅長を務めた経験もある事から「かしわめし弁当」を地元である博多駅の名物にしたいと思う強い気持ちと、自分が売出して名物にするという自信があったからこそ駅弁事業に乗り出したのかも知れませんね。そして、岩倉音熊が博多駅で売り出した「かしわめし弁当」は博多名物となり、後に寿軒、現在はその寿軒ののれんを継承した博多寿改良軒が販売し、今なお博多名物として全国の駅弁ファンに愛されています。
ちょっとここで一休み。前記した通り岩倉音熊は旧福岡藩士のとんとん(福岡弁で坊ちゃんや御曹司の意味)です。福岡藩士と言えば筑前今様です。筑前今様と言えば、母里太兵衛のエピソードを元にした高井知定作の”呑み取り槍”の和歌ですが、ちょっと替え歌を思い付きました(笑)
「〽飯を食え食え 食うならば 日の本一のこの鶏を 煮汁で米を 炊き込めば これぞまことの かしわ飯」
ちなみに、「黒田節」なんてものは福岡には存在しませんし、今様を愛好した旧士族の福岡藩士たちは「黒田節」を嫌いました。それについては過去に「【悲報】福岡に黒田節なんてものは存在しない!旧福岡藩士が嫌った黒田節」を、また「福岡弁 ~あなたの知らない福岡弁~」を掲載していますのでご興味ある方はそちらも是非ご覧くださいませ。
さてさて、調査中に見つけた『名士讃歌撰集』に掲載されていた岩倉音熊作の和歌をご紹介して本題に戻ります。
博多商工會議所議員福岡市會議員岩倉音熊 氏
唯一人いさをせおひてをゝしくも世によびかくる君ぞたふとき。
[引用: 「名士讃歌撰集」(人物讃歌刊行会/昭和9年出版) より]
戦時統制での統合
『先の大戦』の折には国策による戦時統制によりあらゆる業種で整理・統合がなされ、”鉄道構内立売業者”も管轄毎に統合がなされました。前々回の鳥栖駅、前回の折尾駅と同じ様に博多駅も戦時統制が取られた筈ですが、寿軒の公式サイトの「寿軒の歴史」には詳しい変遷までは記載されておらず、あれこれ調べてみましたが詳しい情報を見つける事ができませんでした。鳥栖駅の中央軒さんも折尾駅の東筑軒さんも「昭和に大火事になり色々全部燃えた」とコメントをいただきました。福岡市内は福岡大空襲で焼け野原となったので、恐らく殆ど燃えて残ってはいないのでしょう。
どこの誰かが記した Wikipediaの「博多鉄道構内営業」のページには、1942年(昭和17年) - 戦時統合により当社と福間駅の駅弁屋が経営統合。現在の社名・組織となる。
とありますが、この情報源は出典不明です。正しい情報であれば、福間駅の駅弁屋とは私が調べたところ倉本岩五郎の開運堂だと思われます。
『博多駅史 : 85年のあゆみ』(発行 昭和52年7月11日/編集 博多駅85年史 編纂委員会)に「博多鉄道構内有限会社(寿軒)」に関する記載があり、明治29年4月 博多駅立売営業開始。博多駅弁当仕出所丸末商店と呼称,後に寿軒となる。昭和17年6月 組織変更により博多鉄道構内営業有限会社となる。
とあります。つまり、「博多鉄道構内営業有限会社」となったのは昭和17年6月の事ですが、鳥栖駅や折尾駅は同年5月に組織改編による新会社が設立されている事から、このタイミング(昭和17年6月)で組織変更したのは戦時統制によるもので間違いないと思われます。
鳥栖駅や折尾駅の回からも分かる様に、戦時統制により同駅や近隣駅の同業者が整理・統合されており博多駅も例外では無い筈ですが、博多駅に関する情報は調べても出てきませんでした。ただ、博多駅でかしわめし弁当を専業としていた岩倉音熊の「蓬莱軒」は『門鉄管内人事名鑑』(昭和17年3月出版)に蓬莱軒と岩倉音熊の名で広告が載っており、それが3月なので6月までの3か月の間に何らかの理由で廃業した可能性も捨てきれませんが、戦時中とはいえ従業員の生活もありますし、恐らく営業を続けたが6月に寿軒と統合したと考えた方が良さそうです。逆にこの時期に統合ではなく廃業を選択したのであれば、昭和16年に『金属類回収令』が発布されており、厨房の調理設備などの金属類は国に回収されたかも知れませんし、博多名物かしわめし弁当の歴史はここで終わっている事かと思われます。推測になりますが、やはり戦時統合したのでしょうね……。
さて、岩倉音熊の家族は妻・ナカと一男三女でした。音熊は明治9年生まれで妻のナカ(福岡士族前田實穂娘)は明治31年生まれなので25歳違いです。妻・ナカと子供たちとの年齢差(妻・ナカと長男・仁保とは12歳差)も考えると後添えでしょうね。娘三人は嫁ぎ、長男・仁保(明治43年出生)は早稲田大学を卒業後は福岡市内に本社がある正興電気製作所に勤めていた様です(『会員名簿 昭和36年度版』早稲田大学校友会出版)。「蓬莱軒」に関する情報が戦後は全くない事から、戦時統制による整理統合で消滅したと考えて間違いないでしょう。何れにせよ「蓬莱軒」は岩倉音熊一代限りだったとみて良さそうです。
余談ですが、今回かしわめし弁当について調べている最中に私の高祖父(曾々祖父さん)の事業に関する情報を偶々発見しました。高祖父の事業は駅弁とは全く関係のない業種ですが、戦時統制だと思われる統合に抵抗して最後の最後まで事業を継続させようと抵抗し続けるも最終的に同業他社との統合に至り経営権を失った様です。高祖父の情報を発掘できたのは思いがけない収穫でしたが、戦時統合がなければその後も事業継続できていたかもと思うと残念な気持ちになりますね。
寿軒から改良軒へのれんの継承
明治22年の博多駅開業当初、いち早く駅弁を販売したのは博多の丸明館でしたが、当時の博多駅は乗降りする客が数える程で失敗に終わりました。その後、博多駅で駅弁を販売する者は中々現れなかった事から、博多駅前(福岡市馬場新町)で若干18歳で運送店「明治運輸株式会社」の経営を始めた長崎県五島生まれの末永壽が(当時の)博多駅長・石井良一から懇願されて採算度外視で駅弁販売を開始したのが明治29年4月の事です。弁当の中身は「にぎりめし」だったそうな。後に、自身の名の「壽」の一文字から屋号を「壽軒」(寿軒)とした。それから末永家の主業となり、堅実な歩みで当時福岡随一の現金持ちといわれるほどの財を成したそうな。福岡市内にある「末永文化ホール」は、西日本音楽協会会長でもあった寿軒三代目社長の末永直行氏が設立した末永文化振興財団が建設したものです。
長年に渡り博多駅で「かしわめし弁当」を販売してきた「博多鉄道構内販売有限会社(寿軒)」でしたが、平成22年(2010年)12月に惜しまれつつも廃業しました。平成22年(2010年)12月に寿軒が百年以上続いたのれんを下ろしましたが、明治34年(1901年)創業の広島弁当株式会社が近隣県の駅弁会社の事業・ブランド・商品を継承して駅弁の販売を行っている事を知った末永直行氏が同社に相談し、同社は新会社「博多寿改良軒」を設立して寿軒ののれんを継承していくことに──。廃業から8年後の2018年に「博多寿改良軒」の名で博多名物かしわめし弁当が復活を遂げました。然しながら、寿軒は既に廃業しておりレシピは残っておらず、「博多寿改良軒」で復刻されたかしわめし弁当の味は、料理研究家・山際千津枝氏の監修により福岡県太宰府市北谷に伝わる伝統的な作り方で寿軒の味を再現したのだそうです。
まとめ
博多駅で駅弁を販売していた「寿軒」の歴史は、明治29年4月創業の丸末商店(後の寿軒)に始まります。博多駅でのかしわめし弁当の販売は、大正14年創業の「蓬莱軒」が戦前は行っていましたが、戦時中の昭和17年6月に寿軒が組織変更により博多鉄道構内営業有限会社(寿軒)となると、戦後の博多駅でのかしわめし弁当の販売は「寿軒」が行ってきました。その寿軒も平成22年12月に廃業しますが、2018年に寿軒ブランドを継承した「博多寿改良軒」により、博多名物かしわめし弁当の製造・販売が現在も行われています。
備考
- 蓬莱軒
- 福岡市馬場新町五四
- 鐵道省
- かしわめし販賣
- [創]大正十四年
- 店主 岩倉 音熊
- [電]二九六四
- [銀]安田
- [瑩]Ⓓ
- [所]Ⓔ
- 参考『公認大日本商工信用録 昭和11年 西部版』
- 開運堂 倉本岩五郎
- 宗像郡福間町
- 名物鯛壽司辨當
- 創大正五年
- 電六
- 銀信用組合 職驛賣
- 瑩業人組合長
- 参考『帝国商工録 : 分冊 昭和9年度版 [福岡県・佐賀県]』
- 丸末商店
- 明治29年4月から営業開始
- 参考『博多駅史 : 85年のあゆみ』(1977年7月出版)
- 博多鉄道構内営業(有)
- 福岡市馬場新町四五
- (電)三局四四〇〇
- 設立 昭和一七年六月
- 目的 國鐵構内瑩業
- 資本金 八百萬圓(八萬口)
- 決算期 五月 配當三割
- (代長)末永敏毅 (常)末永直行
- 大口出資者 (出資者數七)
- 末永 敏毅 三ニ、〇〇〇口
- 末永 直行 一ニ、〇〇〇口
- 飯田 末雄 八、〇〇〇口
- 従業員 一ニ〇
- 年商内高 一億七千萬圓内外
- 取引銀行 ⦿福岡(本店)
- 支店 唐津市松浦町一
- 参考『帝国銀行・会社要録 第43版』(昭和37年出版)