2025-04-22
かしわめし弁当の歴史 No.1 ~鳥栖駅・中央軒編~
はじめに
今回は”ひょんなこと”から駅弁の『かしわめし弁当』について調べる事がありました。九州北部の名物駅弁「かしわめし弁当」の販売業者の歴史を纏めた情報なんて興味ある人がいるのか分かりませんが、まとめた情報は書籍やネット上(Wikipediaなど含めて)を探しても見当たらないので、もしかしたら誰かの役に立つかもしれないので記して残す事にしました。
注釈
- 『かしわめし』とは?
九州地方では鶏肉のことを「かしわ」と呼び、炊いたごはんに、かしわや具材を煮詰めたものを混ぜた郷土料理を「かしわめし」と呼ぶ。古くから福岡県の各地域の家庭や食堂でつくられている定番の郷土の家庭料理であり、祭りや運動会等の行事、ハレの日など特別な日にも食されている。駅弁としても古くより愛されている「かしわめし」は、今日に至ってはメディアでも取り上げられ、福岡の名物となっている。
[引用: かしわめし 福岡県 | うちの郷土料理:農林水産省 より]
かしわめし弁当の販売の継承と屋号の変化
鳥栖駅で「かしわめし弁当」を販売している中央軒の公式サイトを確認すると、その沿革に1913.4.1 神武紀之絵(こうたけきのえ)が光和軒を創業 日本で初めての鶏めし駅弁「かしわめし」の販売開始
と記されています。1913年は大正2年です。
さて、中央軒の歴史について詳しく調べてみると、『写真集明治大正昭和鳥栖』(1975年出版)の中でも大正二年に、神武紀之会(人名)が光和軒をつくり
とありますが、他にも古い資料をよく調べてみると、神武紀之会(旧字:神武紀之會)が創業したお店の屋号は「光和軒」ではなく「千鳥屋」で創業年度は大正3年である事が分かりました(参考:『大日本商工録 : 公認 昭和3年版』)。より古い資料だと屋号(千鳥屋)の記載はなく、代表者名(神武紀之会)での掲載なのですが、法人登記をせずに個人事業主の可能性も考えられますが、鳥栖駅の駅弁で千鳥屋よりも歴史が古い八ッ橋屋も同じ様に屋号はなく代表者名での掲載なので、屋号は省略された形での掲載だと思われます(参考:『大日本商工録 : 公認 大正14年版』)。
そして、神武紀之会から千鳥屋の経営権を引き継いだ宮本政五郎は屋号を「中央軒」(昭和2年創業)と改めています。この中央軒は現在の中央軒に繋がりますが別物です。当時の『佐賀日報 夕刊 昭和七年正月号』には、新聞下部の広告枠の左側に中央軒が掲載されており、名物として繁盛していた事が想像できます。昭和14年4月に宮本氏から中央軒を譲り受けた江島靖男は屋号を「光和軒」(昭和14年創業)と改め営業を継続しています。ここ(三代目)で初めて光和軒の名が登場します。この頃には使用人は男六人、女五人を雇ひ、頍る隆昌
(引用:『九州文化大観 第2版』)だったそうです。
ちなみに、二代目の宮本政五郎は元佐世保駅長、三代目の江島靖男は元大分駅長で二人とも元鉄道員で駅長経験者という経歴の持ち主です。
日本初のかしわめし弁当が誕生したのはいつ?
中央軒の公式サイトの沿革によれば、前項で記した様に創業と「かしわめし弁当」の販売開始は大正2年(1913.4.1)だそうです。ただ、私の調べにより判明した神武紀之会が千鳥屋を創業したのは大正3年なので1年のズレがある。駅弁に詳しい瓜生忠夫氏の著書『駅弁マニア』(昭和44年発行)の中に気になる記述を見つけました。
この中央軒の「かしわ飯」について、前掲書「家業とその沿革」のなかに注意をひく記述がある。中央軒というのは鳥栖、久留米、大牟田、日田の四駅の構内営業人が集まって作ったのだが、そのなかの鳥栖駅の駅弁屋さんで、「かしわ飯販売を専業とする江島家」では、「初代、神武(こうたけ)紀之会 かしわ飯の創始者で、大正二年頃の創業であるが、これに関する記録は明らかでない。」といっているのである。もし大正二年に鳥栖駅で売り出していたのであれば、とり弁ではこれがもっとも古いことになる。
[引用: 『駅弁マニア』 より]
ここにある”前掲書”とは、国鉄構内営業中央会が1958(昭和33)年6月6日に発行した『会員の家業とその沿革』(全629p)の事であるが、どうやらこの書籍は同会に加盟する会員(即ち国鉄構内営業業者)向けで非売品のようだ。その中で、大正二年頃の創業
とあるが、先述した様に私の調べでは大正3年創業でした。然しながら、会社設立登記前に個人事業主として営業し始めていた可能性も考えられます。この場合は設立日と営業開始日は同じではありません。何れにせよ、1年のズレが生じたとしても、かしわめし弁当ではもっとも古いことに変わりはありません。
戦時統制での統合
『先の大戦』の折には国策による戦時統制によりあらゆる業種で整理・統合がなされ、”鉄道構内立売業者”も管轄毎に統合がなされました。中央軒の公式サイトの沿革に1942.5.30 鳥栖駅2社、久留米、大牟田、日田駅の国鉄構内営業者計5社が戦時統制により合同し、「九州中央鉄道構内営業有限会社」を設立
とあるので、統合されたこの5社についても調べてみました。
『帝国銀行会社要録 昭和18年(31版)』によれば、「九州中央鐵道構內營業有限會社」(九州中央鉄道構内営業有限会社)は、設立 昭和十七年五月、総口数 一千九百口、資本金 一九0、000、(締)牟田正治 橋下栄次 江島九良夫 坂口よしゑ 梅地球磨 中川五一
と記載されています。鉄道構内立売業者を特定すべく、中央軒公式サイトの沿革にある五社と『帝銀会社要録』にある取締役六名の情報をもとに調べました。
先ず、鳥栖駅2社は「光和軒」と「八ッ橋屋」だと既に判明しています。光和軒については前記した通り(千鳥屋→(元祖)中央軒→光和軒)で、八ッ橋屋については中央軒の公式サイトの沿革に1892.4.1 橋本頼三が八坂甚八と共に「八ッ橋屋」を創業 鳥栖駅構内で弁当の立売営業を開始する
とあります。1892年は明治25年です。
この「八ッ橋屋」について調べてみると、代表者の名前は橋本頼三ではなく橋本頼造の誤り(誤字)であることが分かりました。橋本頼造は佐賀県三養基郡轟木村村長、後に轟木村が町政施行で鳥栖町と改称すると鳥栖町初代町長も務めた人物です。
そして、もう一人の人物の八坂甚八(やさかじんはち)は、土木会社と八坂会社の社長を兼ね、郡内屈指の大地主で多額納税者でした。明治6年に眞木村村長を任ぜられしを始めとして、轟木、眞木、鳥栖、藤木村村会議員、その他轟木村村長、郡組合会議員などを経て、明治27年に佐賀県会議員に当選、同30年7月に貴族院に互選され明治37年の任期満了まで努め、後に衆議院議員も一期務めて政治家としても活躍しています。九州鉄道の開通に合わせ運送業を始めたり(後に現・日本通運株式会社に統合)、明治32年8月には久留米魚市株式会社(現・久留米魚市場)を設立、同33年12月5日には株式会社八坂銀行を設立して頭取に、他にも手広く実業家として活躍していた人物だった様です。現在の鳥栖駅から長崎本線が分かれていますが、当初は手前の田代駅で分岐する予定も八坂甚八が奔走して鳥栖駅で分岐となり、鳥栖の町にハブ駅としての経済効果をもたらしたという話しもあります。そんな八坂甚八は銅像まで設置され鳥栖の英雄だった様です。八坂甚八の銅像は戦時中に国に物資として「提出」して残ってはいませんが、写真が『鳥栖市史』(昭和48年発行)に掲載されています。そんな「八ッ橋屋」の屋号は、八坂甚八の”八”と橋本頼造の”橋”、鳥栖の名士の二人の名字から一文字ずつ取って名付けたのかも知れませんね。尚、八ッ橋屋の創業年度を確認できる資料を見つける事ができませんでしたが、山城屋の肥後名産朝鮮飴の広告に記された”賣捌所”(売捌所)に「鳥栖駅停車場構内 八橋屋」の名があり、明治25年3月16日広告掲載時点で存在している事は確認できました。中央軒の公式の沿革に記された創業年度と一致します。
さて、鳥栖2社を除く他3社ですが、久留米は牟田正治の「牟田水良軒」(参考:『大日本商工録 昭和6年版 全国 13版』)、大牟田は坂口實夫の「坂口汽車弁当店」(参考:『大日本商工録 昭和7年版』)、日田は梅地琢磨の「水郷軒」(参考:『帝国商工信用録 昭和12年度版 九州分冊』)だと思われます。梅地琢磨の名は『帝国銀行会社要録』で梅地球磨となっていますがこれが誤字で探し当てるのに苦労しました。
『帝国銀行会社要録 昭和18年(31版)』掲載の「九州中央鉄道構内営業有限会社」の取締役の名を再確認すると、名を連ねている橋本栄次は橋本頼造の四女・キンの婿で養子となり「八ッ橋屋」を継承(参考:『人事興信録 第13版下』)、江島九良夫は江島靖男の五男で「光和軒」の二代目(か?)、坂口よしゑは坂口芳枝との記載も見られ坂口實夫の妻だと思われます。尚、中川五一については情報が全く無く詳細不明ですが、『久留米市史』に昭和十七年五月三十日、鳥栖(二業者)・久留米・大牟田・日田の四駅五営業人を合同し、資本金十九万円で九州中央鉄道構内営業有限会社を設立
との記載があるので、6名のうち残りのひとり中川五一は駅弁販売業者ではないのかも知れません。もしかすると、弁当には欠かせない米を扱う業者(米屋など)の可能性もありそうですね。
まとめ
鳥栖駅の駅弁の歴史は古く鳥栖駅の開駅とともに明治25年創業「八ッ橋屋」に始まります。そして、日本初の「かしわめし弁当」は「千鳥屋」を創業した神武紀之会により大正二年に売り出され鳥栖の名物になりました。
戦時中の昭和17年5月30日には、鳥栖(八ッ橋屋と光和軒)・久留米(水良軒)・大牟田(坂口汽車弁当店)・日田(水郷軒)の四駅五社が国策による戦時統制で合同し「九州中央鉄道構内営業有限会社」を設立。昭和28年4月1日に「有限会社中央軒」に改称。戦後に久留米などそれぞれが独立した事から、平成4年7月に「株式会社中央軒」が設立されました。
鳥栖の駅弁の歴史は明治25年(八ッ橋屋)に始まり、鳥栖の『かしわめし弁当』の歴史は大正2年(千鳥屋)から受け継がれ今日に至っています。
ちなみに、駅弁のお弁当に入っている焼売(シュウマイ)では、「東が横浜の崎陽軒ならば、西は鳥栖の中央軒」だとも称され、鳥栖駅は焼売も昭和31年頃の発売当時からの名物である。シュウマイの呼び方は、崎陽軒は”シウマイ”、中央軒は”シャオマイ”(焼麦)だと言うそうである。
余談
「鳥栖」という地名の由来は、『肥前風土』の中で養父郡鳥樔郷(現在の鳥栖市)についての記述があり、応神天皇の頃に鳥屋があって種々の鳥を飼育して朝廷に献上した事が書かれておりそれに由来すると言われている。朝廷の求めに応じて鳥を飼育した者たちの事を鳥飼部と呼び全国各地に鳥飼姓や地名が残っているが、鳥栖もまた鳥飼部により名が起ったのだと考えられる。古くから鶏肉を「かしわ」と呼び食していた事もあり、この地(鳥栖)で「かしわめし弁当」が誕生したのは必然的だったと言えよう。
鳥栖や基山(旧基肄養父)は言わずと知れた佐賀県だが、鎌倉時代には太宰府の少弐氏が領し、戦国時代には少弐氏や筑紫氏が統治し、豊臣秀吉が九州平定後は小早川氏(隆景、秀秋)が筑前・筑後に加えこの地を治め、江戸時代には対馬藩の飛地だった歴史がある。また、鳥栖を中心に三養基郡に天満宮が多いのは、太宰府天満宮の前身である安楽寺の御領が多かった事も関係している様である。古くから鳥栖や基山辺りは筑紫野(現在の福岡県筑紫野市や太宰府市周辺)との交流が盛んで婚姻も多かった事から肥前とは方言や文化なども異なりその名残がある。昭和の時代には(鳥栖は佐賀県なのに福岡っぽいことから)「鳥栖は福岡の属国(植民地)だ」と言う者もいたがこうした歴史があるのである。そして、「かしわめし弁当」の流れも肥前佐賀ではなく筑前福岡方面へと広がることとなる。
最後に、本編は『かしわめし弁当の歴史 No.2 ~折尾駅・東筑軒編~』、『かしわめし弁当の歴史 No.3 ~博多駅・寿軒編~』へと続きます。尚、続きは近日公開予定です。続きも是非ご覧ください。
備考
- 光和軒
- 千鳥屋
- 三養基郡鳥栖町
- かしわ辨當
- [創]大正三年
- [瑩]一〇〇
- [所]一〇〇
- 店主 神武紀之会
- [電]一四六
- [銀]松田
- 参考『大日本商工録 : 公認 昭和3年版』
- 中央軒
- 鳥栖町中通り
- 汽車カシワ辨當
- 仕出販賣
- [創]昭和二年
- 店主 宮本政五郎
- [電]二四六
- [銀]博多
- 参考『帝国実業商工信用録 : 分冊 昭和11年版』
- 光和軒
- 店主 江島靖男
- 創業 昭和十四年四月
- 参考『九州文化大観 第2版』昭和15出版
- 八ッ橋屋
- 八ッ橋屋
- [電話番號]一四
- [稱號及氏名]橋本頼造
- [設置場所]鳥栖町大字鳥栖七一一ノ一
- [業務槪要]物品販賣業
- 参考『九州電話実業案内』大正3年出版
- 八橋屋 橋本栄次
- 三養基郡鳥栖町
- 汽車辨當仕出雑貨
- [瑩]四三四
- [所]一〇九一
- [電]六六
- [略]ハシ(ハ)
- [銀]佐賀百六
- 鳥栖商工會副會長
- 参考『大日本商工録 昭和5年版』
- 八ッ橋
- 鳥栖驛前
- 汽車辨當
- 店主 橋本栄次
- [電]六六
- [販]驛内
- [公]町會議員
- 参考『帝国実業商工信用録 : 分冊 昭和11年版』
- 水良軒
- 牟田正治
- 久留米京町二丁目
- 辨當
- 驛構内立賣
- [創]大正十五年
- [電]一ニ一〇
- 参考『大日本商工録 昭和6年版 全国 13版』
- 坂口汽車辨當店
- 坂口ヒサ
- 辨當仕出
- 有明町
- 参考『大日本帝国商工信用録 44版』大正15年出版
- 坂口汽車辨當店
- 坂口實夫
- 大牟田有明町
- 辨當
- 壽し
- 雑貨
- 驛構内立賣
- [創]明治二廿四年
- [瑩]三一ニ
- [所]六八九
- [電]三一三
- [〒]福岡一六四七九
- 参考『大日本商工録 昭和7年版』
- 坂口芳枝
- 大牟田市有明町三一
- 鐵道省指定
- 汽車辨當仕出し
- 創明治二十四年
- [瑩]三三一
- [所]八八六
- 電二三一三
- 銀三池
- 参考『帝国商工信用録 : 分冊 昭和11年度版 [福岡県]』
- 水鄕軒
- 日田郡日田驛前
- 汽車辨當
- 調理業並ニ名産品販賣
- 和洋食堂
- [創]昭和拾年貳月
- 営業主 梅地琢磨
- [電]四七三
- [〒]福岡二一二六四
- [銀]大分合同
- [仕]福岡市其他
- 参考『帝国商工信用録 昭和12年度版 九州分冊』
- 九州中央鐵道構内營業有限會社
- 久留米市京町七九
- 設立 昭和十七年五月
- 總口數 一千九百口
- 資本金 一九〇、〇〇〇
- (締) 牟田正治 橋本瑩次 江島九良夫 坂口よしゑ 梅地琢磨 中川五一
- 参考『帝国銀行会社要録 昭和18年(31版)』
- 有限会社中央軒
- 昭和28年4月1日
- 橋本栄次社長、江島九良夫取締役
- 参考『久留米市史 第5巻』
- 株式会社中央軒
- [本]〠841 鳥栖市京町 ☎(0942)82-3166
- [設立]平成4年7月(創業明治25年)
- [資]1,000万 [従]55人
- [年商](平成3年度実績)4億5,700万円
- [製]駅弁当、料理、しうまい、かしわめし、駅ホームうどん
- [役]≪社長≫橋元康志
- 参考『食品工業総合名鑑 1993』