2024-12-14

【悲報】福岡に黒田節なんてものは存在しない!旧福岡藩士が嫌った黒田節

福岡県の民謡『黒田節』は、黒田家家臣・母里太兵衛の呑み取り槍のエピソードも含めて全国的に有名なので、きっと皆さんもご存知かと思います。然しながら、そもそも福岡には民謡『黒田節』なんてものは存在しません!!(キッパリw)少し知識がある方であれば、「『黒田節』は正しくは『筑前今様』だ」という方もいるでしょうが、実はそれも正しくはありません。Wikipediaなどの情報も不正確です。ハッキリ言ってしまえば、『黒田節』はマスコミ(マスゴミ)による捏造です。今回は、その件について記します。

『黒田節』の歌詞の最後にもある黒田武士こと旧福岡藩士たちがまだ存命中だった時代(昭和初期)、旧福岡藩士たちは『黒田節』を嫌いました。筑前福岡の今様の元祖・二川相近(ふたがわすけちか)の曾孫で当時の二川流宗家・二川松韻(二川瀧三郎)を始め、同じく旧福岡藩士で玄洋社の創設者にして西日本吟道会(現・亀井神道流 西日本吟詠会)の顧問だった頭山満、同じく旧福岡藩士で筑前今様朗詠会会長の武谷水城、同じく旧福岡藩士で政界の黒幕と呼ばれた玄洋社の杉山茂丸(祖父の杉山啓之進は二川相近の門弟)もそのひとりです。旧福岡藩士だけではなく、博多民謡や筑前今様の名手で知られた生粋の博多っ子の竹若啓次郎(下金屋町出身)は二川瀧三郎と一緒に今様の研究に励んだ人物です。この他にも多くの今様愛好者たちが『黒田節』を嫌った話しは時代の流れと共に完全に忘れ去られ様としています。

まだ明治維新前の江戸時代の筑前国福岡藩(現在の福岡市近隣)の話しです。福岡藩の武士たちの間で雅楽の「越天楽」(えてんらく)の旋律に様々な歌詞(和歌)を付けて歌う「越天楽今様」(単に今様とも)が流行しました。福岡藩の国学者で書家でもあり雅楽を愛好し和歌に傾倒していた二川相近は自ら新作の今様を作り、詠じ、藩主の命で今様の歌集を編纂したり、藩士たちにその指導も行いました。福岡藩では「範吟」という今様の指南番が置かれ、武士の嗜みとして幼少時から教えられていたのだとか。

余談ですが、二川瀧三郎 著『二川相近風韻』によると、二川相近は現行国歌の『君が代』と全く同一の和歌を書にしたため毎年正月に神社に奉納し歌っており、現存する『君が代』の遺墨は文政2年(1819年)元旦分が最古だそうです。尚、『君が代』の初出は10世紀初頭の『古今和歌集』だと言われています。明治以降『君が代』は日本国の国家ですが、同じ様に筑前今様(=二川流)は福岡藩の藩歌でした。

補足

「越天楽」とは平安朝で流行した雅楽の曲名のひとつで、「今様」というものは福岡に限らず各地に存在していましたが、福岡藩士たちが愛好した「今様」は福岡生まれのそれに限定され、また他所の今様の存在を全く意識していなかった事などもあり、他所と区別する必要性が無く、藩士たちの間では単に『今様』と呼ばれていました。また、越天楽の旋律に様々な和歌を当てますが、ひとつひとつの歌に題名(「黒田節」の様な呼び方)は付けられてはいませんでした。古い書籍などの資料を探ると、他所の地域では、旧福岡藩士たちが歌う筑前の今様の事を「黒田武士」や「黒田節」、また「筑前今様ぶし」などと呼ぶ事があった様ですが、それらはあくまでも他所の一部地域で便宜的に呼ばれていた呼び名(呼称)に過ぎません。

それから時代は流れ、昭和3年の出来事です。まだTV放送が開始される以前、NHKラジオの番組のひとつに各地の民謡を紹介する番組があり、当時のNHK福岡放送局の園芸番組係りだったまだ20代と若かりし井上精三(博多下西町出身)は、かねてより福岡の「今様」をラジオで流し流行らせたいと目論んでいました。ある時、博多にたまたま来訪した上司(大阪放送局・奥谷放送部長)を井上氏が料亭で接待した際に「今様」を聞かせたところ「初めて聞く歌だ」と芸能に精通したその上司が言うものだから調子に乗った井上氏は「今様」を放送する決断をしました。そして、昭和3年終り頃に「福岡民謡『筑前今様』」と題して遂にNHKラジオの全国放送で初めて”筑前今様”を流すも、伴奏もなく手拍子だけの今様は全く反響が無く、この結果が寧ろ井上精三の若き闘志に火を着ける結果になるのでした。

井上精三は反響が無かった理由を考え試行錯誤しながら、今様には本来は無い尺八や三味線などの伴奏を付け、陣太鼓や鐘などの効果音をあしらったり、曲調を当時(昭和3年)の今風の歌謡曲調に変えたり、一首一首独立した今様(和歌)を2番~3番と並べたり、題名を『筑前今様』から『黒田武士』後に『黒田節』(ラジオ放送ではどちらも音は同じ”くろだぶし”が理由らしい)と改めたりして、スタッフは自身含めて2名と自身に裁量権がある番組である事を良い事にNHKラジオの全国放送で繰り返し、若い芸者の赤坂小梅に歌わせた『黒田節』を流し続けました。すると次第に反響があり、遂には『黒田節』が福岡民謡黒田節として全国的に認知されるまでになりました。

井上氏は全国にひろがってしまったと他人事の様に述べていますが、井上氏が意図的に広めたのは言うまでもなく、それは曲調が本来の雅楽の越天楽の優雅さや静けさを失いもはや福岡藩士たちが愛好した「今様」ではなく、井上精三氏の情熱…否や当時まだ二十代だった博多っ子による若気の至りによる”暴走”によって生み出された”歌謡曲”なのであって、『筑前今様』とは全く別物の『黒田節』の事を正しくは『筑前今様』だと単に言い換えるのは”不適切にも程がある”訳なのです。この点を誤解しないで欲しい事を、当方の先祖も福岡藩士なので今は亡き旧福岡藩士たちに成り代わり代弁させて頂きたい。

この様に『黒田節』とは、福岡藩士たちが愛好した『越天楽今様』ではなく、当時NHK福岡放送局勤務だった井上精三により福岡県の民謡だとして仕立て上げられた、謂わば民謡だと捏造されたに等しい歌謡曲なのです。NHK出版の『NHK福岡放送局50年史』にも記されている公然とした事実なのです。井上氏が今様の愛好家だった旧福岡藩士たちに何らかの相談などをするでもなく、井上氏の身勝手な独りよがりから生まれたものなので、今様を本当に愛好していた旧福岡藩士たちは当然の事ながら憤慨して『黒田節』を非難しました。『黒田節』という安っぽい名前を付けた人物は誰だ?と犯人捜しに躍起になったそうですが、現代の様にSNSが発達どころかまだTV放送すら始まる前の情報が少ない時代の出来事です。もっとも”メディアの情報は正しい”と信じられていた時代だった事は言うまでもありません。そんなメディアの影響力により『黒田節』は瞬く間に全国的な知名度になったのでした。

昭和17年(1942年)には、大手レコード会社のコロムビアにより当時人気芸者になっていた赤坂小梅が歌う『黒田節』がレコード化されました。赤坂小梅はそれまでに今様を嗜んだ経験は無く、また出身地の福岡県田川郡(現・田川市)は江戸時代には筑前福岡藩ではなく豊前小倉藩領ですから、『黒田節』を嫌った旧福岡藩士たちは当然面白くはなかっただろうと容易に想像がつきます。実際に、頭山満らの怒りの矛先は赤坂小梅に向けられ、彼等が存命中の間は赤坂小梅は福岡で『黒田節』を歌えなかった様です(『九州文學 6月号』)。また、赤坂小梅のふくよかな姿を揶揄して”横綱”と罵る者まで居ました。赤坂小梅への仕打ちは、『黒田節』名付け親の正体を伏せていた井上精三のとばっちりですね。赤坂小梅さんは悪くはないのです。

余談ですが、第25~28代福岡市長・進藤一馬(旧藩士の子息で第十代玄洋社社長)は、昭和52年に”黒田節五十年を感謝して”、赤坂小梅に表彰状を贈り『黒田節』を広めた事により福岡県が有名になった功績を称えています。

ちなみに、私の母と亡き母方祖母は共に二川流今様を習い今様の心得があります。母曰く、曾祖父(母の祖父)も今様や能を愛好していた様です。母が最初に習った先生で当時の筑前今様二川流吟道宰都館の副館長・三角先生(角の縦棒は下まで貫く字形か?)曰く「芸者が余興で謡う様なものではない」とお怒りだったとか。また”あの人”のせいで本物の(筑前)今様が廃れてしまったとも(”あの人”と”芸者”とは、恐らく戦後直後に人気を博した赤坂小梅を指すのであろう)。筑前今様二川流吟道宰都館とは、二川松韻の弟子・座親松翠により筑前今様二川流の普及をすべく創設され、現在は三代目館長・立石松翠氏となり活動し続けている二川流の本流を継承した吟詠団体です。母と祖母はこの他にも亀井新道流でも筑前今様を習った経験があります。私自身は亡き父方祖父母が共に岳風会の師範だったので幼少期に詩吟を習った経験がありますが、詩吟と二川流筑前今様とでは全く違いますね。

話しを戻します。江頭光 著『新がめ煮 : 博多歳時記』には、次の様な話しが記されています。

戦前、皇紀二千六百年祭かなんかの靖国神社奉祝大会に、地元から”筑前今様”を奉納上映したいと申し出たが、断られた。理由は「なになに節、なになに音頭など、俗謡はすべて辞退したい」。驚いて「冗談なこと。素性正しい”筑前今様”ですばい」と説明を盡くしたが、ついにダメ。関係者は「ああ、英霊に故郷の歌を一声なりと聞かせたい」と無念の涙を流した。

[引用: 新がめ煮 : 博多歳時記/江頭光 著 より]

宮廷雅楽が源流にあり、第120代仁孝天皇も詠じた記録もある由緒正しい”筑前今様”ですが、井上氏による作られた福岡県民謡で低俗と化した印象が悪影響したであろう事は容易に想像出来ます。

福岡民謡黒田節が世間に広まり30年程の月日が流れ──。それまで誰にも語る事が無かった井上精三が自身がいらぬ事をしたと自身の著書『にわか今昔談義』(昭和32年出版)の中で『黒田節』誕生秘話(名付けた経緯)を明かしたのは、批判していた旧福岡藩士たちが既にこの世を旅立ち夜空のお星様となった頃でした。

(※明治元年(1868年)生まれでも昭和32年(1957年)時点で89歳です。江戸時代生まれの旧福岡藩士の年齢は更に加算される。)

井上氏は冒頭の方で「この機会を利用して一般の了解を得ておこう」と述べていますが、今様を愛好し『黒田節』を批判していた旧福岡藩士たちは既に他界しておりもうこの世にはいません。旧福岡藩士たちが全滅した頃を見計らったとしか思えないタイミングでの公表。井上氏は計算していた可能性すら感じます。また終わりの方では非難されるのは面白くない。この気持ちを友人の原田君はわかってくれるだろうとも綴っていますが、井上氏のその親友で作家の原田種夫(福岡市春吉出身の旧士族)は自身の著書で黒田節と呼ばれるに至ったのは、昭和三年十一月、NHK福岡放送局で『黒田節』と名づけて全国中継してからだ。命名者はその頃、同放送局にいた井上精三である。(『九州の旅』昭和36年)とチクリと書いていた事をちょっと意地悪だがここに書き添えておこう。

井上氏は更に著書『博多風俗・芸能編』でも、30年もの間誰にも話した事がなかった理由を全国的に愛唱されるようになったとしても、自慢すべきことではないと述べ、批判に黙っておれず明かしたとも記していますが、この頃にはもう旧福岡藩士たちは過去の歴史上の人物になっており反論出来ない事を良い事に、屁理屈を並べ立てて自らがした行為を正当化しており、言いたい放題に綴られたその内容に経緯を知る私は呆れ果てた事は言うまでもありません。

また、井上氏は民謡研究家の町田喜章が『民謡歴史散歩』(昭和37年(1967年))にて述べている黒田節についての記事を引用して福岡民謡黒田節の正統性を主張していますが、『民謡歴史散歩』の書籍を探し該当記事を読めばわかりますが、町田喜章は明らかに事情(井上氏により作られた民謡である事)を正しく把握せずに評価しています。事情を理解している別の民謡研究家・松田務は『レクリエーション 11』(昭和43年)の中で次の様に述べています。

昭和三年(一九ニ八年)十一月福岡の放送局からこの「今様」を放送するのに当り、放送局の井上精三という人が一般的に唄の最後の歌詞「これぞまことの黒田武士」のさむらいの武士を「節」という字をあてて「黒田節」として放送いたしました。黒田節という親しみ易い名もよかったのですが、ラジオというマス・コミの威力とさらにレコード吹込によって流行に拍車をかけ「すばらしい民謡だ」ということになって全国的に急激に広まりました。従って民謡黒田節としての歴史はまだ四十年位にしかならないわけです。

[引用: 日本民謡巡り(54)黒田節(松田務・民謡研究家)@『レクリエーション 11』(昭和43年) より]

例えば、博多っ子の伝統で魂でもある『博多祝い唄』(祝い目出度)などを博多っ子に何の相談も無く博多っ子ではない者が今風に韓国語歌詞で韓流曲調に変え、更には韓流メイクをして踊りまで付けて、ご丁寧に博多では昔から歌っている歌なのだと広めたとしたら、博多っ子たちはどう思うのでしょうか?やってしまった人は夜道が怖くて歩けませんよね?だから”私がやりました”と少なくとも数十年(事情を知り批判する人たちが老いぼれるまでの間)は公言できない筈です。井上氏が『黒田節』でやった事はそれと全く同じ事なのです。

井上氏は「文句を言うのは音楽理論を知らない人だ」とも述べていますが、井上氏の方こそ歴史や文化、時間軸というものを完全に無視して身勝手で好き勝手な言い訳をしているに過ぎないのです。旧福岡藩士たちが生きており井上精三のこれらの著書での主張を目にしていたならば、きっとこれは黙ってはいなかった様に思います。私ですら怒りを覚えるのですからね。ちょっと物騒ですが、世が世ならば、夜道で後ろから斬られたかも知れませんよね?井上氏はそれが分かっていて恐れていたからこそ、動乱の幕末を生きた旧福岡藩士たちが存命中の30年程もの間は他言せずに秘めていた(自慢したくても言えなかった)が、そろそろ大丈夫だろうと我慢出来ずに頃合いを見計らったタイミングで明かしたのではないかと私は思います。墓場まで持って行けば良かったものを、御託を並べたところで結局は『黒田節』が全国的に知られるヒット曲になったのは自分の功績なのだと自慢しているのと同じ事です。今で言うところの承認欲求を満たす為に筑前今様は井上精三に利用された様なものです。

然しながら、全国的に知られた福岡民謡『黒田節』ですが、今でも福岡で歌い継がれているのは『黒田節』ではなく『筑前今様』(現代では他所の今様と区別する為にこう呼ぶ)です。この点は井上精三の目論見通りにはなりませんでした。夜空のお星様になった井上精三様、夜空の上で顔を真っ赤にした旧福岡藩士たちに「黒田節と名付けたのは貴様だったのか?!」と責められ追い駆けられてはいまいかと心配です。あぁ、南無阿弥陀仏……。

最後に、以下に『黒田節』に関して、筑前今様を愛好した方々の意見などが掲載されていた出版物の記述をご紹介しておこう。

また、二川松韻(二川相近の曾孫で当時の二川流宗家)と竹若啓次郎(松韻の友人であり筑前今様の名手)の両故人は、それぞれが生前に筑前今様をレコーディングしており、国会デジタルアーカイブにその音源が保存されています。歴史的音楽(れきおん)が利用可能な図書館では音源を視聴するが出来ます。(※竹若啓次郎は三通り程歌い分けるそうなので、お二人共に歌い方の調子はこの限りではないのかも知れません。)

まだまだ書きたい事は沢山ありますが、既に長くなっており更に長くなる恐れがある為、今回はここまでに致します。筑前今様と黒田節の歌詞の遍歴などについて、また後日綴りたいと思います。まだ続きます(汗)