2024-07-24

博多ん者な横道者…誰も知らない本当の意味

『博多ん者(もん)なー横道者(おーろーもん)、青竹割ってへこに(い)かく。』(博多弁)

『はかたんもんラーメン』のCM(出演:故・鮎川誠さん)

'80年代に九州限定で販売された『はかたんもんラーメン』のCM(出演:故・鮎川誠さん)でも使われた言葉(フレーズ)です。福岡県民ならずとも九州育ちの中高年以上の方ならば、きっと一度は耳にした事がある事でしょう。今の若者であっても地元愛が強ければ、九州男児としての格言として胸に刻んでいる方もいるかも知れません。

現在の福岡県柳川市育ちの詩人・北原白秋も次の様な短歌を残しています。

兵兒

九州者(もん)な横道者(もん)青竹割って兵兒(へこ)にかく

青竹割り睾丸(ふぐり)締め込む不知火(しらぬい)の南筑紫(みなみつくし)のますらを我は

[引用: 兵兒 -- 北原白秋 より]

北原白秋の詩では、博多者から九州者に範囲が拡大されています。北原白秋のこの詩にも見られる様に、多くの人はきっと、青竹兵兒心意気(気風の良さ)を表す言葉(フレーズ)だと解釈しているのではないでしょうか?然しながら、この青竹兵兒の言葉(フレーズ)は、本当は博多っ子への悪口である事はきっと殆どの方がご存知ない事でしょう。

昔の福岡市は、那珂川を隔てて西に筑前福岡藩(黒田藩52万石)の武士が暮らす城下を「福岡」と呼び、東に商人や職人が暮らす町を「博多」と呼びました。明治維新後の『廃藩置県』により、黒田家が統治する福岡藩と支藩の秋月藩が福岡県となり、『市制施行』により、武士の町福岡と商人の町博多がひとつとなり福岡市が誕生しました。その後も周辺地域の統合を繰り返し現在に至る訳ですが、説明が長くなるのでここでは省かせて頂きます。

武士の町福岡(福岡部)と商人の町博多(博多部)とでは、文化も風習も方言も違い、気質も全く違ったので反りが合う筈もなく、市制施行の際には「福岡市」にするか「博多市」にするかでも一悶着あったそうです(参考:福岡市 博多の豆知識vol.4 「福岡市か博多市か!?」)。

そんな時代の話しです。

福岡部の子供たちはよくこんな歌をはやした。

『博多んもんなおうどうもん、青竹割ってヘコかいて、ヘコのぜんな払いきらん……』(博多者は横着者で青竹を割ったふんどしをつけ、布のふんどし代は払えない)。はっきり言うと、ふんどしを買う銭もないくせに、いやに横柄に威張っているという意味だ。

[引用: 西日本民俗博物誌(上) より]

福岡部の子供たちとは、旧士族のとんとんたち(福岡弁で坊ちゃん、子息の意味)を指します。他の書籍でも同様の文言が口語に近い書き方であります。

”博多んもんナー横道者(おうどうもん)、青竹割って褌(ヘコ)かいて、ヘーコの銭(ぜん)ナー払いきらん”

[引用: 明治の博多記 より]

この青竹兵兒の悪口は、恐らく子供の頃に「ばーか、あーほ、まーぬーけー、おまえのかーちゃん、でーべーそー!」とリズムに乗せて囃し立てた様な感じで言ったのでしょう。余談ですが、この「お前の母ちゃん出ベソ」は、鎌倉時代にまで遡る悪口(あっこう)なのだとか。

福岡部の子供たちが囃した歌の文言は、博多弁と殆ど遜色無いですが、一応『福岡弁』です。『福岡弁』とは主に福岡部で使われた旧福岡藩士が使った武家言葉の方言の事で、町人言葉の博多弁とは言葉遣いが違います。また、博多弁に比べ堅苦しく難しい言葉遣いをします。江戸(東京)で言えば、山の手言葉と下町言葉の様な違いがあります。現在の福岡市や周辺地域には博多弁が広く浸透していますが、旧家の一部では福岡弁が受け継がれています。ですので、福岡県内の方言を総称して福岡弁と呼ぶのは間違いなのです。福岡弁については、私の過去のブログ記事でも掲載していますので、ここではこれ以上の説明は省かせて頂きます(関連記事:福岡弁 ~あなたの知らない福岡弁~

勿論、博多の者も言われて黙ってはいられません。例えば、商売が不慣れな福岡の旧士族の”とんとん”(旧士族の子息)が醤油を売り歩く姿を福岡弁の豈図(あにはか)らんやにかけて「兄量らんや、弟醤油売り」などと茶化して腹の中で嘲笑ったりはすれど、理屈っぽい城下を真向から相手にすると後が五月蠅く面倒なので、東の筥崎(箱崎)に八つ当たりをして悪口合戦になります。箱崎は古くは立花家家臣の箱崎党が居住した地域です。箱崎側も負けずに福岡の言葉(悪口)を借りて反撃しました。

  • 博多のもんなァ横道者(おうどうもん)、青竹割って褌(へこ)いかく。(箱崎)
  • 箱崎党は水膨れ、松葉で突いたな痛がろう。(博多)

[引用: 博多ダイジェスト より]

博多者から箱崎党へ投げかけられた悪口にはバリエーションがありそうです。

『箱崎党は水ぶくれ、松葉で突いたらびっくとしょう・・・』

[引用: 西日本民俗博物誌(上) より]

いつしか博多っ子は、この悪態の言葉(悪口)を寧ろ自分たちを褒め称える言葉だと受け取り自慢しました。現在では、多くの方が思う様な意味(博多っ子の心意気を表す言葉)で知られている事は言うまでもありません。

余談ですが、『石城志』にもある様に、昔の博多の一般の家屋は青竹を割り交互に葺く竹瓦葺だったそうです。青竹を割って兵兒代わりにするのは、頭の上に使うものを下(しも)に用いる様なとんでもない横道者だという意味合いもあったのかも知れませんね。

以上が青竹兵兒の本当の意味です。

(※念の為に、文明開化も間もない明治時代の話しです。現代の話しではありませんのであしからず。)