2008-11-21

「和時計・現代版電脳全自動式万年自鳴鐘(仮称)」の製作状況の報告!~其の壱~

先日製作を開始したと報告した「和時計わどけい現代版電脳全自動式万年自鳴鐘げんだいばんでんのうぜんじどうしきまんねんじめいしょう(仮称)」(以下、新作和時計)の製作状況ですが、まずまず順調に製作作業が進んでいます。現在は、和時計の表示関連の設計を行っているところです。この調子で作業が順調に進めば、本年度中にはβ版をソフトウェア工房にて公開できます・・と言いたいところですが、絶対にと言うお約束は無理ですのでご了承下さい。中途半端な完成度でのβ版の公開より、確りと形になってから正式版を公開した方が良いかとも思い始めていますので、そうなると来年公開になってしまう可能性もありますので・・・。(謝)

オンラインソフト総合サイトや雑誌等にも掲載・収録されて大反響を呼んだ(?)私の最初の和時計ソフトである「和風表示時計」から早幾年──。新作和時計には、私がこれまで培ってきた知識や技術を凝縮しています。

先日ちょっとだけ計画を記しましたが、表示方法はデジタル(文字表示)とアナログ(文字盤表示)方式を切り替えて利用できるように計画しています。完成までまだまだですが、一応デジタルで動作をし始めています脳内では(笑)、アナログ表示のソースコードも出来上がり、文字盤の方式も等間隔(二丁天符による遅速調整)と割駒式文字盤や波板式の尺時計も再現)。表示関連のデザインやアナログ表示の文字盤部品の準備等はこれからですが、期待を裏切らない完成度を実現できるよう今ある力量の限りを尽くします。・・・誰も期待していない?(滝涙)

さて、今作一番の目玉機能とも言える「昼夜の長さが毎日刻々と変化する現代版モード」と「江戸時代の和時計を再現して二十四節気ごとに変化する江戸時代版モード」のプログラムは完成しました(序に定時法モードも搭載)。江戸時代版モードの二十四節気の導き方も「平気の二十四節気」ではなく日本最後の太陰太陽暦の『天保暦』でも導入された「定気法(定気の二十四節気)」を採用しました。「二分二至」の季節配当規則のプログラムが完成したので、「ライズ・セット ~太陽と月の出没~」で実装している月齢プログラムを再利用すれば、旧暦の計算も十分に実現できます。新作和時計がまだ完成する前に、「和風表示刻古与美わふうひょうじときごよみ」の再開発計画が頭に浮かんでいます。(爆)

定時法と不定時法とを混同した情報の連鎖・・・。

ところで、インターネット上での最近の和時計事情はどうなっているだろうかと、某・検索サービスを利用して久々に和時計関連の情報を探してみました。私が「和風表示時計」を製作した当時(2000年頃)は、昨今のブログブームが到来するよりも昔だった為か、和時計に関する情報量は多くはなかったと記憶しています。でも今では物凄い情報量(40万件以上)ですね~。早速、ヒットした中から何件かをちょっとだけ拝見してみましたが、明らかに他者が公開しているウェブ資源の情報を鵜呑みにしている内容や他人の真似事が目に付きました。これらは何も和時計関連の情報に限らずのことでしょうが・・・。

目を通した情報が全てと言う訳ではありませんが、多くが定時法不定時法をごちゃ混ぜにしてしまっているようです。私がごちゃ混ぜだと思った記事等の作成者は、子、丑、寅・・・というときの数え方=江戸時代の不定時法だと恐らく勘違いされているのではないでしょうか。どの記事でも参考にしたサイト等へのリンクを掲載していることが内容の信憑性を高めているように思えますが、何でも鵜呑みにしてはいけません。

例えば、明六つとは、不定時法なら夜明け時の「六つ」の事で、不定時法の場合の時刻の干支は「」の刻の始まりです。これが定時法ならば同じ「六つ」時でも「卯」の三刻(一辰刻を四等分した三番目の刻)になります。つまり、6時~8時までを卯の辰刻とする不定時法と、これとは1時間ズレる5時~7時までを卯の辰刻とする定時法があったのです。不定時法の明け(暮れ)の六つ時は、『寛政暦』以後、京都の日の出(入)の百刻法で二刻半(現在の36分)前(後)で、太陽の伏角が7度21分40秒になる薄明の時刻に相当します。従って、不定時法では六つ時と言っても季節により多少のズレがあります。

不定時法の場合、藩や地域によっては幕府が定めた暦法及び時法とは異なる独自のものを使用していた事もありこの限りではありません。

さらに補足・・・。昔の日本の時刻制度は、十二辰刻法百刻法五更法といった中国の時刻制度(基本的に定時法)を踏襲していました。同じ十二辰刻法でも定時法では百刻法と対応させる為に一辰刻を二等分した前半を「初刻」、後半を「正刻」とし、古くは「時報」を「正刻(一辰刻の真ん中である「三刻」)」に『延喜式』に示される通りに行って民衆に時刻を知らせていたそうな・・・(『日本書紀』によると、天智天皇が中国から導入した漏刻(水時計)で時を知らせたのが天智天皇10年(671年)4月25日と記され、現在の太陽暦に換算した6月10日を今では「時の記念日」としている)。その為、一般の人は時報から辰刻が始まるのだと考え出し、これが後に定時法と不定時法とで1時間ズレる原因になったと考えられる。その後、不定時法が一般的になった状況から『天保暦』では不定時法を初めて正式に採用──。しかし、暦算の為の暦には基本的に定時法が使われ・・・云々かんぬん──。ちなみに、旧暦では日の境を「丑」と「寅」の刻との境としていたとも言います。

次に挙げた記事は、近世日本の時刻制度について、定時法と不定時法とを混同した情報の連鎖が見受けられました。

  1. 和時計を作ってみた - file-glob こと k.daibaの日記
  2. 和時計時報に関して - Hatena::Diary::hashy1126
  3. 旧暦表示のブログパーツ(JavaScript) 彼岸前迄~此岸の徒然~/ウェブリブログ

最初のk.daiba氏の日記では、Perl言語による和時計のソースコードが掲載されています。解説にもある様に薄明(夜明け、日暮れ)ではなく日の出,日没からそれぞれ30分ほど暗くなった頃を六つの基点として各刻限を算出しているようです。このコード自体は手の加えどころがありますが悪くはありません。

然しながら、この記事の巻末のコメント欄に投稿しているhashy1126氏のブログでは、k.daiba氏の内容に対する正誤表とパッチが掲載されていますが定時法と不定時法との混同が明白です。hashy1126氏のブログの巻末にある参考リンクを辿ると、hashy1126氏が不定時法と定時法を混同する要因になったであろう記事(旧暦表示のブログパーツ)に行き着きました。この記事の作者が参考にした情報源は不明ですが、インターネット上で参照できる旧暦の時刻に関する情報の多くが十二辰刻法に定時法と不定時法があった事を明記(また区別)してない(それ以前に、子、丑、寅・・・というときの数え方=江戸時代の不定時法だと思い込んでいたら、十二辰刻法に定時法があったことを想像もしないだろうから区別すらできない)ことが混同を招く要因だと考えられます。

さてさて、日本の時刻制度について語ろうとするとコンテンツがひとつ(本なら一冊)出来上がるので、最後に時刻一覧表と専門用語の簡単な解説を掲載して終わりにします。

刻(とき)と十二辰刻法
定時法不定時法
九つ真夜子三刻子一刻
九つ半丑一刻子三刻
八つ丑三刻丑一刻
八つ半寅一刻丑三刻
七つ寅三刻寅一刻
七つ半卯一刻寅三刻
六つ卯三刻卯一刻
六つ半辰一刻卯三刻
五つ辰三刻辰一刻
五つ半巳一刻辰三刻
四つ巳三刻巳一刻
四つ半真昼午一刻巳三刻
九つ午三刻午一刻
九つ半未一刻午三刻
八つ未三刻未一刻
八つ半申一刻未三刻
七つ申三刻申一刻
七つ半酉一刻申三刻
六つ酉三刻酉一刻
六つ半戌一刻酉三刻
五つ戌三刻戌一刻
五つ半亥一刻戌三刻
四つ亥三刻亥一刻
四つ半真夜子一刻亥三刻
十二辰刻法の時刻
辰刻定時法不定時法太政官布告
夏至冬至
23:0023:40頃23:40頃0:00
1:001:10頃1:50頃2:00
3:002:30頃4:00頃4:00
5:003:50頃6:10頃6:00
7:006:30頃8:00頃8:00
9:009:10頃9:50頃10:00
11:0011:40頃11:40頃12:00
13:0014:20頃13:30頃14:00
15:0017:00頃15:20頃16:00
17:0019:40頃17:10頃18:00
19:0021:00頃19:20頃20:00
21:0022:20頃21:30頃22:00

注釈

  • 時刻と方位を円で表現したものが多くの国語辞典の冒頭か巻末に掲載されています(漢語辞典や古語辞典などにも掲載されています)。
  • 辞書での時刻は、この約二十年間に出版された辞書では定時法で、それ以前の辞書なら不定時法で掲載されている事が多いようです。
定時法ていじほう
一昼夜を均等な長さに等分した時刻制度
不定時法ふていじほう
日の出・日の入り時刻を基準に昼夜を等分した時刻制度
十二辰刻法じゅうにしんこくほう
  1. 定時法では、一昼夜を十二等分して十二支を当てはめた。子の辰刻は23時~1時。百刻法と対応させる為に一辰刻(百刻法の八刻と三分の一刻)を二等分して前半を「初刻しょこく」、後半を「正刻せいこく」とし、一辰刻を百刻法の四刻と六分の一刻として「初刻、一刻、二刻、三刻、四刻」と五分割したが、奇妙な事に最後の「四刻」だけは等分せずに六分の一刻とした。他にも、一辰刻を同様に「初」と「正」に分けたが一辰刻を「一刻、二刻、三刻、四刻」と四等分し、さらに一刻を十等分して十の「分(ぶ、歩とも書く)」に分けるなどの方法等も見られる。
  2. 不定時法では、日の出・日の入り時刻を基に、昼夜を二分してそれぞれを六等分して十二支を当てはめた。子の辰刻は0時頃~2時頃。一辰刻を正式には四つの刻に分けたが、それとは別に三等分して「上刻、中刻、下刻」ともした。
百刻法ひゃっこくほう
一昼夜を百等分した定時法。単位は「こく」(一刻は現在の14分24秒)
五更法ごこうほう
五夜ごや
夜間(「戌」~「寅」の刻)だけを五等分した時法。夜警の者が更代こうたいする意からきている。夜間を「一更(甲夜)、二更(乙夜)、三更(丙夜)、四更(丁夜)、五更(戊夜)」と五等分し、さらに一区分を五等分して五つの「点」に分けた。然しながら、庶民の間では使われていないようである。
薄明はくめい
  • 日の出前、或いは日没後の微かな明るさ。日本では、日の出前の薄明を彼誰かわたれ、日の入り後の薄明を黄昏たそがれという。
  • 夜明け、日暮れは日本独自の定義で、太陽の伏角(見せ掛けの地平線下の太陽中心の高度)が7度21分40秒になる時刻。
  • 世界的には、市民薄明(出没から-6度)、航海薄明(-6度~-12度)、天文薄明(-12度~-18度)という薄明の定義がある。

注釈

延喜式えんぎしき
弘仁式、貞観式の二式、及びその後の式(律令の施行細則)を集大成した全五十巻におよぶ法典。延喜5年(905年)に醍醐天皇の命を受けた藤原時平らが編集した。
寛政暦かんせいれき
寛政戊午暦かんせいぼごれき。幕府の命により、天文暦学の一派で麻田流天学の創始者・麻田剛立あさだごうりゅうの弟子である高橋至時たかはしよしときが同弟子の間重富はざましげとみらの助けを得て清国の『暦象考成』に基いて作られた暦。『宝暦甲戌暦』(宝暦5年(1755年))に代わり、寛政10年(1798年)から施行された。『宝暦暦』以前は、渋川(安井)春海が元国の郭守敬が作製した『授時暦』を参考にして作られた日本初の和製暦である『貞享暦』(貞享2年(1685年))が、『貞享暦』以前は中国の暦法を模倣していた。
天保暦てんぽうれき
天保壬寅元暦てんぽうじんいんげんれき。我が国最初の実地測量による地図を作製した伊能忠敬の測地事業に加わり、後に幕府の天文方・渋川正陽の養子となった高橋至時の次男・渋川景佑しぶかわかげすけが実兄の高橋景保たかはしかげやすと共にオランダの『ラランド暦書』の訳解を行い、間重富の子・間重新らの助けを得て完成させ、天保15年(1844年)から施行された一般的に旧暦と呼ばれる完成度が高い太陽太陰暦。後に、明治5年(1872年)11月9日の太政官布告(317号)により、明治6年(1873年)1月1日から現在の太陽暦(グレゴリオ暦)に改められた。

警告!:本記事を読まれて、貴方のサイトに定時法と不定時法を混同している記載等があると思われれた場合には、私のこの記事であれ内容の信憑性をあらゆる方面から一応検証(図書館で調べたり)してこそしかるべきです。本記事の内容を鵜呑みにして直ちに貴方の掲載内容を何事も無かった様に修正、また本文書の転載等をされるのはご遠慮下さい。